Be mine my darling

失われた愛に。失われた希望に。そして、新たな旅立ちに。

完全復活する日なんて来ない

乗り越えるってなんだろうか。

気持ちの整理ってなんだろうか。

 
 
時間の経過とともに、落ち着きを取り戻したように見えるかもしれないし見えないかもしれないけど、確実に感情の振り幅は小さくなった。
じゃあそれが「気持ちの整理」とやらなのかと言われたら、きっと違う。
 
単純に、現実を突きつけられる機会が減ったから。
テレビはもちろんファンの間でも話題になることも随分減って、ダメージを受ける回数が少なくなったから。
多分、それだけ。
 
 
受け入れるってなんだろう。
ショックを受けたけど立ち直ったっていう人は、もう何を見ても聞いても大丈夫なんだろうか。
それとも、胸が痛い気持ちよりも祝福や応援したい気持ちが上回ってるから、自分の中でケリがついてるんだろうか。
 
 
先日、ある方からご友人の話を聞いた。
その友人は、もう10年以上前に既婚者になったアイドルのファンだそうで。
彼女はまだ「それ」を乗り越えてなんていない、って言っていたそうなんです。
 
そのご友人が、どれくらいの期間ファンなのか、どういうスタンスで応援してたかは分からないけど。
私はその人の気持ちが凄く分かるような気がした。
自分もそうなるような気がした。
今回のような経験をした方の話を色々聞いたりしたけど、私にはその方の話が一番納得というか、しっくりきた。
 
 
彼が幸せなら私も幸せ、っていう方もいれば、アイドルとして楽しませてくれればそれで充分、て方もいる。
自担が「そう」なっても変わらず心から応援できるのは単純に羨ましいけど、どうしたって割り切れないファンもいて。
そのへんのスタンスや愛情のベクトルの違いはその人だけのものだから、強要も説教も介入すべきじゃないと思うし、してほしくない。
 
 
そのご友人はしんどいだろうなと思った。
もちろん好きだから、大好きだからそれからもずっとファンでいると思うんだけど、何かにつけずーっとその痛みが付きまとう訳だから。
きっと何かの拍子でまた傷が開いたりするんだと思う。
周りが平気なことでも、自分だけ過敏に反応したり思い出したりして辛くなるんだと思う。
それを言えなくて、共有できる人がどんどん減っていくのも苦しいんだと思う。
 
 
それこそ、よっちゃんファンで今もそんな気持ちを抱えてる人もきっといるんじゃないかな。
パパひこ、なんて言われて、家庭の話がチラっと出るとはしゃいで喜ぶファンがいる中で(私は元々その手の話題は嬉しいと思えないけど)、人知れず心を痛めてるファンは確実にいるんだと思う、言わないだけで。
言えないだろうなあ、そんな気持ち。
時間が経てば経つほど、周りがそれを当たり前に受け入れていけば受け入れていくほど。ましてやそれを周りが肯定的な気持ちで捉えていたら。
と思うと、なんだかこれから先の自分が見えてしまうようで正直気が重くなる。
 
 
じゃあ、この痛みがきれいさっぱり無くなったら?と想像してみる。
その話題を聞いても平常心でいられる自分を思い浮かべてみる。
多分その時、私はもう長野くんのことを好きじゃないと思う。
 
 
悲しみたくて悲しんでるわけじゃないし、できることなら前みたいに楽しくて幸せな気持ちだけで彼らを応援したい。
 
 
でもきっとこれが、自分の長野くんに対する「好き」なんだろうなって。
好きだから悲しいし、好きだから辛い気持ちが切り離せないし、でもやっぱり好きだから追いかけてしまう。
悲しいことに、この気持ちと「好き」は表裏一体なんだと思う。
だから私は、この件について、完全に乗り越えることも気持ちの整理がつくこともないような気がしてる。
長野くんのことを好きでいる限りは。
 
 
あれから、時間が経つとともに口を噤んでしまった人がいる。
うまく気持ちを言葉にできないから、そこまでの気力が無いから、今さらもう言えないから。
私自身、当初よりは吐露しなくなった。
口を閉ざすことは楽だなって思った。
 
気持ちを言葉にすると客観的にもなれるけど、一層その気持ちが強くもなるから。
自分の中だけに留めておくことで、いつの間にかその気持ちが変化して、最後にはぼんやりとしか思い出せなくなったりする。
そうしたくて黙ってしまった人もいるのかもしれない。
ファンの数だけ、それぞれの向き合い方があるから。
 
大好きなんだよなあ。
今も、毎日、大好きだなあって思う。
かっこいいなあ、可愛いなあ、好きだなあって、思う。